電光石火の襲撃 検使達の目の前まで接近した異国船は一旦停止したかに見えたが、舳先を沖へと向け直した。フェートン号は944トンの巨艦である。和船の千石船の何倍ものサイズであるが、その艦を検使等一同の船々に素早く接近させた上でほぼ停止し軽々と回頭(タック)したのは、見事な操艦技術と感嘆せざるを得ない。ブレーキも無ければエンジンもない帆船である。当時の英海軍、そしてペリュー艦長等の帆船航海の技量水準の高さを物語る。もちろんこれにはこの時の風が強かったのが幸いしている。風が無ければ、どんな帆船もsitting duckと化し身動き出来ないからだ。検使とオランダ委員は停船した異国船に漕ぎ寄った。『少し距離を置いたところで、代表委員たちは同船に向かって、いかなる船であるか」と呼びかけた。するとオランダ船だとの答えがあった』(「長崎オランダ商館日記」196p)。そして午後5時30分(フェートン号航海日誌10月4日記載)舳先に吊るし置きしてあったバッテイラ(当時の長崎の人々は小舟のことをポルガル語起源の「バッテイラ」と称した)に15人程乗り組み、スルスルと海上へ降ろした。「崎陽日録」原文によれば『ひらりと海上に下り』とある。よほど鮮やかな手並みであったのだろう。これは東シナ海航海中に散々繰り返した演習の成果である。この様子を至近で目撃した隠密方の吉岡十左衛門(吉岡の船と沖取締遠見番の船はフェートン号に無視されたあとフェートン号に追随していたがフェートン号がタック(回頭)してバッテイラを出す作業をしている時に検使やオランダ委員の船団に急いだのだろう)の松平図書頭への第一報によれば『長さ4-5間(8-9m)幅2-3間(3-5m)くらいの青い塗装のバッテイラを海上へ巻き下ろし天幕を張り左右に両人が杓子のような橈(かい/オールのことである)を操って速度を早め紅毛船へと近寄った』(「通航一覧」401p)と言う。小舟はオランダ委員が乗っている船に素早く漕ぎ寄ってきた。(ここからは「長崎オランダ商館日記」196p)そこでホウセマンとシキンムルが船縁に立ってもう一度「どの国の船であるか?」と問いかけた。するとオランダ語で「これはオランダ船でバタビア(ジャカルタ)から来た」との返事が帰ってきた。検使はオランダ委員の船のすぐそばにいて、通詞を通してこの会話を聞いている。オランダ委員は確認のために再び問いかけた。「去年(バタビア)に帰帆したオランダ人イイキスは渡来しているか?」(9月21日付通詞名村多吉郎の書状によれば“ハクキス”とある)すると「乗っている」と返事する(「崎陽日録」)。異国人はオランダ委員2人に「こちらの船に乗り移れ」と言うのでオランダ委員が「もうすぐ御検使様御一行がそちらの船にお越しになる」と答えると、異国船上からメガホン(オランダ語でルーベル)で大きな声が発せられた。これは恐らくペリュー艦長が「その2人を捕えろ」と命じたに違いない。その瞬間バッテイラの『船板を跳ね上げ下から15人がそれぞれ短筒を持ち火縄を振り剣を帯びて躍り出て白刃を振りかざし大声をあげて紅毛人両人を取り押さえ、直ちにバッテイラへ連れ込んだが、検使船船頭はじめ棹子(水主)ども水中に飛び込み、辺りにいた漁師や商い船もみな大騒ぎして逃げ出したり落水して逃げる者あり』(吉岡十左衛門の証言「通航一覧」401p)と騒然となった。「崎陽日録」9pはこう活写する。『(現代語訳)
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紅毛人ホウセマンをバッテイラに引き込み大いに驚いたオランダ人シキンムルは後退りして船の中程にいたのを異国人ども残らず剣を抜き持ち、紅毛人の乗船へ飛び込み理不尽にバッテイラに連行した(「商館日記」によればシキンムルはこの時帽子を海へ落とした)。この船に乗っていた通詞3人のうち六三郎は検使の船に飛び移ってこれを知らせ繁次郎作七郎は紅毛人危うしと助けようとしたが海中に落ち入り、その他漕ぎ手(水主)舵取りなど大いに驚いて海中に飛び込む者や他の船に飛び移る者あり。たまたま残るものは酔った様になり漕げなくなった。この騒動に役船援船数十艘集まっていた船々は時雨に舞い散る木の葉の様にバラバラと逃げ散って無惨なり。バッテイラへは紅毛人二人を奪い取って本船より綱を下ろし本船へ引き付け船人共に巻き上げたのは素晴らしい手際の良さだった(原文「めざましかりける有様也」)。 隠密方(吉岡十左衛門)は検使の乗船へ漕ぎ着けこの次第を庁(奉行所)へ急報すると言い捨てすぐに港へ乗り入れる。盗賊方もこの様子を遠目ながら見て検使の乗船が乗り遅れるのが見え心許なく引き返し高鉾島の横で検使の乗船と出会ったところ「この状況を早く庁へ報告せよ」と命じるので早く漕ぎ立てようとしても漕ぎ手たちはことの次第に驚いてなかなか漕ぎ進まない。幸い曳舟の役に出ていた小舟がいたので乗り換えて戸町御番所下へ行ったところ御番所に詰めていた者に申し捨て直ちに庁へ向かう』。
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以上が各資料が伝える襲撃の瞬間である。検使とオランダ委員団など長崎港を出発した旗合の船々は8艘(前章参照)、これに真っ先に口外に出た隠密方(吉岡十左衛門)と盗賊改方(田口惣兵衛)の2艘、さらに2人1組の遠見番の沖出役が4艘(児島唯助/吉川次郎兵が乗る1艘は異国船に遅れて追従していた)、計14艘の船がフェートン号のすぐそばに集まっていた。さらに盗賊改方の行動でわかるように、異国船がオランダ船であった場合に備えて曳舟の群れがもう出動していたようだ。これは高鉾島のそばで投錨したオランダ船を何十艘もの小舟で長崎港内へ曳いて行くためである。それが「役船援船数十艘集まっていた船々は時雨に舞い散る木の葉の様にバラバラと逃げ散って無惨なり」と、あっという間に大混乱となった。「通航一覧」401pには『検使船船頭はじめ舟の楫子(かじこ、櫨(とも)にいて、棹(舵)をさす人)ども水中に飛び入り、近辺漁師商い船までも大騒ぎに呼び立て船を出して逃げ出しまたは落ちて泳ぎ去るものあり、検使通詞その他役人も思いもよらざる事態に大いに狼狽しているうちに異人どもは本船に帰り碇(いかり)で引き寄せ(ボートの)天幕が風を受けてはためきながら舳先(へさき)から鉤(かぎ/フック)をかけてくるくると(ボートを)引き上げ、それから36間(65m)の船で「軍器を張り」(戦闘準備をし)舷側に並ぶ大砲の砲門を開け』とあり、フェートン号が日本側の反撃に備えたことがわかる。だが、日本側は反撃どころか、短銃やサーベルなどの白刃を見て恐慌を来たし我先にと海に逃げ、たまたま残った漕ぎ手も漕ぐどころの騒ぎではなく船も動かないと言う有様であった。太平の世の中が続き、人々は白刃を振りかざされる経験も無かったのだろう。幕吏(江戸幕府から出向)3人(検使2人と隠密方)のうち、気丈なのは手附出役(同心)隠密方の吉岡十左衛門であった。吉岡は検使の船に漕ぎつけ「直ちに庁(奉行所)へ事態を報告する」と言って奉行所へ急いだ。「崎陽日録」9pはさらに伝える、『盗賊改方田口惣兵衛(地役人)は遠方から事態を目撃していたが検使が乗る船を追いかけ高鉾島の横で漕ぎ寄ると「すぐに庁(奉行所)に報告しろ」と言われたが水主(漕ぎ手)たちは動転して漕げないのでたまたま曳舟に出動していた船に乗り換えて戸町御番所へ行き詰めていた番子に異変を告げて奉行所へ急行した。遠見番の児島唯助/吉川次郎平は異国船に1町(100m)ほど遅れていたが、沖で見た様子では(オランダ船ではなく)異船であることを検使に伝えようと必死に櫓を漕がせるが、大船は順風を一杯に受けてその速さはとても追いつけるものでは無かった。そのうち旗合の役船がこの異国船に近寄っていくのが見えるので「急げ急げ」とせき立てても海上のことでままならない。そのうちに異国船は船足を止めて漂うように見えたHaulingのでその隙にようやく追いついて検使の船に近づき沖での様子を伝えようとすると他の役船からオランダ人が拉致されたと聞かされ「早く庁(奉行所)へ報告せよ」と命じられ、港内に漕ぎ急いだ。さて検使2人はどうしていたか?検使の菅谷保次郎と上川伝右衛門はオランダ人を拉致されるという驚くべき事態に茫然自失となってしまった。これは検使という任務=①オランダ船かどうかを確認。確認できなければすぐに禁を破って来航した異国船として西泊/戸町両御番所へ命じて緊急体制を敷く。②「オランダ人を守り抜く」、これは奉行松平図書頭が強調した大きなポイントである。前章で触れた図書頭の指示は「紅毛船(オランダ船)は季節外れの入港であるから、例年より早めに出動し、この船に近寄らずに旗合(はたあわせ、信牌=入港許可証の確認作業)をせよ。(隠密方、盗賊方、遠見番など)出迎役として主導している者共によく状況を尋ね、もし疑わしい事があらば直ぐに両御番所(西泊御番所戸町御番所)に命じて港内侵入を阻止せよ。オランダの委員達は検使の後に従わせ、先頭へ出してはならない」というものであった。2人の検使の頭からこの指示は消えてしまっていたと言わざるを得ない。それも無理のないこの日の行動であった。午後2時に大波止から役船を出して5kmも離れた小瀬戸まで行き、そこから標高100mの小瀬戸遠見番所まで上り下りし、そして高鉾島より1.5km先の四郎ヶ島まで足を伸ばして待機していたのだ。大波止から伊王島へ行く船に乗ればわかるが、神崎/女神の長崎港口(今は空高く女神大橋が聳え立っている)を過ぎると海面は黒く変わりうねりも大きくなって、外海に出たことが認識できる。その港口からさらに3km以上も出て四郎ヶ島辺りまでいけば、この日の強い風で検使やオランダ委員らの大型の役船でも上下に大きく揺れ続けていたことだろう。10月の過ごしやすい天気とは言え小瀬戸遠見番所までの登り降りに加え、日頃慣れない外海での船上待機は、検使にもオランダ委員にも相当体力を酷使していたと言わなければならない。この日の強い風に揺れる役船上で船酔いしていた可能性も排除できない。小瀬戸遠見番所で船頭が「オランダ船でしょばい」という言葉に背中を押され、荒れる海上で待ち続けてようやく三色旗をたなびかせた異国船を目にし、通詞に尋ねれば「オランダ旗に間違いありませ
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ん」と言われたら、全ての警戒心は溶けてしまったのではないか。「オランダ人を先に出すな」という奉行の指示など念頭から消えていたろう。だから検使自らが異国船と交渉するのではなく、オランダ人に交渉を任せてしまったのだ。この時、異常を知らせようと漕ぎ手を督促して懸命に急いでいた児島唯助/吉川次郎平の遠見番船のことも落ち着いていれば目に入った筈だがその余裕は無く、なんとく流れに任せてしまったのだ。